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三島邦弘

三島邦弘/ミシマ社代表 編集者

今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。 なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

第5回 閉じよ、そして開くのだ。

 人類史上、もっとも大きな変化が起きている。
 ミシマはふとしたときに気がついた。
 ところでいったい、その変化とはなにか?
 地球温暖化?
 ノン。
 TPP?
 ノン。
 アメリカの衰退と中国の台頭?
 ノン。
 超高齢化社会の到来?
 う~ん、ノン。
 たしかに、およそ30年後には三人に一人が高齢者になるという。これはきわめて大きな変化ではある。
 が、ミシマが気づいた変化とは、人口比や構成率などの数値化可能な表面上のものではない。人間の質的変化をさしている。
 つまり、人間そのものが変わろうとしている。とミシマは思い至ったのだ。
 問いの角度を変えてみよう。
 現代人は、何ともっとも時間を過ごすようになったのか?

 古来、環境が人間に与える影響は大きいと考えられてきた。
「孟母三遷」の例をまつまでもない。商人の世界に住めば子どもは商売人のまねをする。お葬式屋さんの多い地域に住めば、子どもはお葬式ごっこをする。
 なにも子どもにかぎらない。カント研究者は長年研究するうちに、カントさながらの顔つきになる。眉間のあいだに、正確無比の象徴が刻まれるのはむしろ自然現象である。20年銀行員をつとめれば、ひよっこだった青年もそれらしいギラギラ感を漂わすようになる。そして、仕事の対象や道具になじむにつれ、それらとの時間に快適さをおぼえる。サッカー選手であればサッカーボールが、野球のバッターならバットが、単行本編集者のばあい本が、料理人にとっては包丁が、各人の落ち着きをもたらす。

 そういえば、あるだんじりエディターが言っていた。
「ガ~、とガーーでわかる。ガ~まわせ!言うときは1メートル、ガーーまわせ、言うたら1・5メートル。ずっと岸和田に生まれ育ってきてるもんにはわかる。それがわからんと祭りで怪我する」
 正確ではないが、こんなニュアンスであった。いずれにせよ、一瞬一瞬が勝負のだんじり祭り。そのまっ只中、懇切丁寧に言葉をかけあうことなどありえない。ガ~とガーーの差異を瞬時に理解できるのは、彼の地に生まれ育った者だけが体得できる技と身体性の賜物である。だんじりの「お稽古」をしているだけで身につくものではない。家族、隣近所、親戚、友だちのお兄ちゃんたちと「やりあう」うちに、いつしか身につく感覚である。
 このように、その環境に「いて」、「触れる」ことだけが可能にする能力獲得というものがある。

 仕事も同様。カントと触れることで、銀行でお金と触れることで、サッカーボールを蹴ることで、バットを振ることで、多種多様の本を編集することで、包丁を研ぎ魚を捌くことで、人は職業人(玄人)へとなっていく。いうなれば職業人になるとは、その「対象のように」なっていくということでもある。顔つきも仕草も思考も性向もあらゆるものが、カント、お金、ボール、バット、本、包丁、みたいになる。結果、その分野における感覚が磨かれる。
 人はその対象と長い時間を過ごすほど、それらと「同化」する。
 望むと望まざるとにかかわらず。
 勝手に、同化してしまうのである。
 そして、同化していくうちにやがて知ることになる。見事に同化している人たちの存在に。つまりは、先達の存在に。
 そうして初めて学びの装置が発動する。伝承、継承の機会はその延長に生じる。
 むろん、先達から学ぶのは、技術だけではない。日々の挨拶などの基本はもとより、他者との関係の築き方、礼儀、倫理、そして生き方まで学ぶことになる。
 おおげさにいえば、職業人になるということを通して、生きるということを学ぶ。

 冒頭の問いをくりかえす。
 現代人は、何ともっとも時間を過ごすようになったのか?

 ・・・もう、おわかりであろう。
 コンピュータ。あるいはスマホ。
 職業、地域、年齢、性別問わず、みな、コンピュータの前にいる。スマホに触れている。
 そうして、知らず知らずのうちに、「コンピュータみたい」になっているのだ。カント研究者がカントみたいになるように。
 パソコンの画面に映っている内容は各人各様、ぜんぜん違う。デザインをする者、計算をする者、文を書く者、動画をつくる者、ひたすら数字の入力をする者・・・まさに百人百様である。
 まったく違う内容の仕事をしている。
 にもかかわらず、である。
 仕事の中身に関係なく、コンピュータと触れていることにかわりはない。裏を返せば、パソコン・スマホという一点を介して人種、職業、階層、ローカリティ、あらゆるものを越えて、共通なるものをもつ。

 カントに触れるものがカントに、サッカー選手がボールに同化するように、人は接触するものに感化される。接触するものが人に伝播する。コンピュータとて同じである。それに触れれば触れるほど、その前で過ごす時間が長くなればなるほど、人は「コンピュータ」みたいになっていく。
 おそらく顔つきも、しぐさも、思考パターンも、身体というもののとらえ方も・・・。

 たとえば、こんなふうに。
 ――バッテリーを充電しないと動けない。メモリがフルでは動けない。けれどいつでも欲しいときに情報を得たい。調べたいものが出たらその場で調べる。だから記憶はしなくていい。待てない。すぐにわからないとイラつく。わずか数分であれ、待つことが耐えがたい。接続が悪いのも許せない。大容量のやりとりはいまや当たり前(まさか京都のデザイン事務所でつくった「版下」を東京に半日かけて運んでいた時代があったなんてもはや誰も覚えていない)。スリープしておけば、次の「立ち上げ」が早くなる――。
 気づかぬうちに、自分というモノを、あたかもコンピュータを動かすように動かそうとする。
 コンピュータのもつ制約に自らの身体をしばる代わりに、コンピュータのもつ無限性には、飲み込まれてしまっている。

 いまや会社に入れば上司はパソコンである。あるいはスマホである。
 最初から「コンピュータに侵食された」状態で入社して、なんの疑いもなく、パソコンの前に腰かける。データを送受信するのみ。はなから仕事はパソコンの前ですることになっているかのように。
 上司や同僚に、何かを「手渡し」する機会もない。
 具体的なモノのやりとりはなし。
 むしろ、パソコンやスマホを介して、ここにはいない他者とつながる。必然、ここにいる人たちの存在価値は下がる。まして、その人たちと「同化」しようという気など起こりえない。勝手に同化してしまっている、という事態も起こらない。
 なぜなら「過ごして」いないのだから。
 上司や同僚たちよりもパソコンと一緒にいる時間がはるかに長い。
 その結果、何が起こっているか。というと・・・

 職業がなくなっているのだ。
 職業と同化することを通して職業人になることなく、先にコンピュータと同化してしまっている。
 結果、その人でなければできない仕事がなくなり、「その人」もいらなくなる。
 こういう恐るべき事態が現場で起きつつある。

 これまで、仕事の対象や道具と同化すればするほど、その道における感覚は磨かれた。それによって、素人だった人間が玄人になる。つまり、「勘」が働くようになったわけだ。しかし、 コンピュータとの同化では、感覚そのものはむしろ低下し、勘が働くようなことがなくなる。現在のタブレットであるかぎりは、すくなくともそうと言わざるをえない(体感調べ)。記憶力すら下がるという報告もある(『デジタル・デメンチア』参照)。
 同時に、仕事を通して、学ぶという機会もなくなってきている。



 ミシマは小さい会社であるが、その代表をしている。
 会社には若いメンバーだけでなく、デッチと呼ばれる学生もくる。
 旅するよりも、本気で働く人たちの生の姿に接することで何かを感じてほしい。
 そういう思いで設けている、学生さん用の枠である。
 ところが、彼ら・彼女らもまた、まずはパソコンの前に座ってしまうことが多い。
 とりわけ京都オフィスのように、ワンルームのスペースしかないと、切って貼って大きなものを作って、という場がそもそもない。がゆえに、どうしてもパソコンでの作業を自分たちも頼むことが多くなる。
 あらためてミシマはしみじみと感じる。
 一軒家の自由が丘や城陽オフィスには、無駄な場所がそれなりにあったが、ああいう無駄がいかにありがたいものか、と。
「空き容量」ではない。真の無駄。
 今の京都オフィスでは、そうした無駄はつくりようもない。
 だからせめて意識的であろうとミシマは意を強くする――。
 
 パソコンを閉じよ。スマホを消せ。そしてわが感覚を開くのだ。

 ここまで書いてはっとした。
 パソコンの前に累計8時間も座っていたではないか・・・。
 いそいでミシマはパソコンを閉じようとした。
 だが、もはやミシマの身体は、フリーズしたパソコンさながら、すっかり凍ってしまっている。
 パソコンを閉じるミシマの脳内に、突如、デスクトップ画面が現れた。そこには電子文字が小さく躍っていた。
「解凍まで約2時間」

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