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三島邦弘

三島邦弘/ミシマ社代表 編集者

今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。 なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

第11回 これがほんとの「パワーポイント」

 数カ月前、本コラムの編集担当であるN氏からツイッター上で連絡がきた。そこには、「なんじゃこれは!?」と火急の事態を告げる一文とともに、ある写真が添えられていた。その写真には、某社の車内吊り広告の文面がはっきり映っていた。

彼が部屋に来たいというのを断った。
実家から持ってきたちゃぶ台のせいで。


 これが広告でなければ、なかなかに、こちらの想像力に訴える文章である。と言えなくもない。たとえば。
 ————この二人は恋人なのか? だとすれば、つきあってもう長いのか? 出会ったばかりなのか? それとも行きずり?(それはないな) 仮に恋人関係が長いふたりだとすると、初めて彼女の住む部屋に来るということか? にもかかわらず断ったということは、ちゃぶ台を「良し」とすら思ってもらえない関係なのか? もしや、彼女は彼氏に嘘をついてきたのではないか? たとえば「わたし、北欧風な家庭で育ったの」、とか?

 まあ、こんなふうに想像力を働かせるのは、別段、不愉快なことではない。むしろ、ちょっと楽しいとさえ言える。しかし、この二文のあとに小さく刷られた一文がなんともいただけない。

さあ、ダイニングを変えよう。

 これがあるために、たんに品のない広告へ落ちてしまっている。
 N氏が怒るのはもっともである。「ちゃぶ台に対し失礼やろ」という思いはむろん、「こいつ、わかっとらん」というのがN氏の率直なところだろう。ミシマもそう感じた。どうやらそれは世間の反応でもあるようで、けっこうバッシングも受けたらしい。
 


 それにしても、とミシマは苦笑せざるをえない。よりによって、ちゃぶ台が否定の対象にされるなんて。
 ご存じの方も多いと思うが、ミシマがたち上げたミシマ社という出版社は、この9年間、ちゃぶ台を中心にまわってきた。ちゃぶ台あっての出版活動なのである。けっして比喩ではない。
 出版社の生命線である企画会議もタイトル会議も、営業ミーティングも、雑談からまじめな話し合いも、もちろん昼ごはんもおやつも、すべて、丸いちゃぶ台を囲んでおこなっている。お客さんの評判も上々で、座談会やお昼を食べながら打ち合わせをしたことも数知れない。たいてい、「落ち着くわ〜」「お尻に根が生えそう」といった言葉を残していくことになる。

 言ってみれば、ちゃぶ台は、万能なのである。食卓にもなれば、会議テーブルにもなり、仕事机にもなる。切ったり貼ったりする、作業場にもなる(ミシマ社には仕掛け屋チームというのがあり、切ったり貼ったりすることが多い)。
 前回のコラムで、万能マシーンと言われているパソコンの限界について述べたが、ちゃぶ台は、真に万能なアイテムと言える。なんといっても、半世紀を超える年月がその有用性を実証している。まだ歴史的評価のくだらないパソコンとは決定的に違う。
 また、機能性、万能性だけでなく、どんな空間に置いてもしっくりくる。その意味で、デザイン性も高い。畳の部屋はいうまでもなく、木の床、会議室、フローリング……どこに置いても、柔軟に対応できる「すごいやつ」なのだ。
 
 ではなぜ、こんなコピーができたのか。ちょっと想像してみよう。
 まっさきに思いつくのは、先の広告を作ったひとは、ちゃぶ台を使ったことがない。間違いなく、ない、といっていいだろう。ちゃぶ台を一度でも使ったことがあれば、これをネガティブな対象としてとらえるという発想など持ち得ないはずだ。それとも、使ったことがあるのに「嘘」をついたのか。あるいは、嘘はまったくなく、本当にちゃぶ台が嫌なのか?
 ともあれ、もし本当にちゃぶ台未ユーザーが考えたのであれば、「自分が知らないもの」を平気で否定の対象として取り上げ、代案を提示したわけだ。これは、たまにネット上で見かける「読んでませんが、この本は面白くないと思う」的発言となんら変わらない。問題は、後者は素人の無責任さで許されるが、前者は仕事としてやってしまっている点だ。

 よく知らないものを否定、もしくは批判するというのは、仕事の原則としてあってはいけない。そこから、批評は生まれない(嘘の実感に基づいたのであれば論外。本当にちゃぶ台嫌いなのであれば、あまり普遍性のない個人的な感覚を押し付けないで、といいたい)。
 おそらく、コピーライターは、ちゃぶ台を「古いもの」の象徴として用いたのだろう。「古さ」を表わす、たんなる「記号」として。

 くりかえすが、仕事として広告をつくる人間(あえて「プロ」といってもいい)が、批評的な広告をつくろうとしたときにさえ、知りもしない対象をたんなる「記号」としてのみ、無自覚に使う。自らの行為に懐疑の念を抱くことなく! 
 きっと、この広告にかぎらないだろう。こうした事態はあらゆる業種で同時多発的におこっているにちがいない。
 ミシマには思い当たるふしが多いのだ。
 それは、ある「仕事のやり方」を採用するようになってから起こり出した。ミシマが会社員だった頃の十数年前から主流となりだし、今では、子どもたちにも行わせようという風潮さえある。ご想像の通り、「パワーポイントによるプレゼン」ってやつだ。

「今回、当ショップは、『ダイニングを一新させよう』キャンペーンをやることになった。A男、プレゼン資料つくってもらえる?」
「はーい。了解っす。どんな感じにしときましょ」
「とにかく、売れるふうにしてくれ」
「わかりました。最終的に、部屋の家具を丸ごと変えさせたらいいんですよね」
「そうだ」
「ということは、古いものを変えたくなるコピーにすればいいんっすね」
「うん、そうしてほしい」
「わかりました。クライアントが納得するよう、図化しときますよ(もち、パワポで)」


 はたして、こんな会話が制作会社内で交わされたかどうかは不明である。ただ、どこかの過程でパワポを使っただろうことは想像に難くない。
 パワポとは、簡単にいえば、プレゼン資料作成ソフトである。「誰が」見ても「ひとめ」で「わかる」。そういう資料を作るためのソフトといえる。
 では、どうすれば、「誰が」見ても「ひとめ」で「わかる」ようになるのか?
 簡単な話である。
 次元を下げるのだ。
 三次元のものを二次元へ。二次元のものを一次元(ときにそれは「点」。つまりポイント!)へ。現在のビジネスシーンでおこなわれている行為の大半は、「次元を下げる」行為にほかならない。

 パワポは、次元を下げることで、「誰も」が「ひとめ」で「わかる」ことをめざすツールである。
 だが、実際にわれわれが生きている世界は複雑である。もとより、私たちは一次元でも二次元の存在でもない。身体ひとつとりあげても、三次元にそれはある。加えて、直感や感覚といった言語化、数値化、ビジュアライズできないものをフルに使って生きている。
 部屋もしかり、ちゃぶ台もしかり、だ。
 生きている、血が通っているということは、「複雑」であるということと切り離すことはできない。

 意識的なのか無意識的なのかはわからないが、「ちゃぶ台を捨てて、わが社の新製品を買いましょう」という広告には、複雑なる存在である「生き物」(ちゃぶ台)から、血の通わない「記号」を部屋に並べよう、というメッセージが込められている。
 いってみれば、パワポは記号を並べて、二次元資料をつくることで、「生命」を奪っているのだ。だから、パワポを見せられてのプレゼンはどれもこれも「つまらない」。
 そのことに気づくと、パワーポイントという名前がいかに名折れしているかがわかるだろう。本当のところは、「パワー‘ダウン’ポイント」と呼ぶのがせいぜいふさわしい。
 


 合気道の内田樹師範は、常々、こう言っている。
 「股関節と肩甲骨が開かないと、大きな力は出ませんよ」
 そのためには、指先、手先を使い、その感覚を敏感にしなさい、ということをよく指摘される。
 もちろん、合気道にかぎった話ではない。
 仕事においても、大きな力を出そうとすれば、股関節を開き、肩甲骨を開き、下半身、全身の力を指先、手先に伝えていくにしくはなしだろう。

 たとえば、手先、指先を使ってプレゼン資料を作っていれば、記号だけが並ぶようなことにはならないだろう。歯止めがかかるはずだ。なぜなら、血の通った指先は、血の通わないもの、体温のないものなんて、一瞬にして気づくからだ。冷凍庫に腐ったものが入っていても気づかないが、外に出ていればすぐに気づくようなものだ(って違うかな)。
 
 いずれにしても、こう言える−−
 真のパワーポイントは、肩甲骨と股関節にあり。
 


 この10月、ミシマ社では初となる市販雑誌を創刊した。この雑誌は、雑誌づくりの常識である「台割り」をつくらないという方針でつくりきった。つまり、台割りという一枚の紙(二次元)にいったん置くのではなく、自分が発見したライブ感をそのまま一冊に詰め込むような編集を試みた。そうでないと、本誌で最も伝えたかった「生まれつつあるちいさな未来の形」を逃してしまうと感じだからだ。「生きたもの」を便宜上、いったん二次元に置き換えるという行為はもはや、「古い」といえる。
 あくまでも全身の力、下半身の力をダイレクトに伝える。それが、次世代パワーポイントのやり方なのだ。

 ちなみに、その雑誌名は『ちゃぶ台』という。

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