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三島邦弘

三島邦弘/ミシマ社代表 編集者

今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。 なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

第27回 あたらしい「声のあげ方」

 2019年9月5日台風15 号が、10月6︎日には台風19号が列島を襲った。
 15号では千葉県を中心に停電と断水がつづく。19号は福島、宮城、神奈川、長野ほか北関東など13都県で88名もの命を奪った(2019年11月2日時点)。この台風後にも一部の地域で断水が起きている。

 そのたび、既視感をぬぐえない。
 お風呂、食事、トイレがままならないのはもちろん、顔を洗う、汚れを拭く、といった「ちょっと」が凄まじく不便。開店できない飲食店、ものがつくれない工場。ポリタンクをもって給水車を訪れる人たち。
 この光景、去年たしかに見たことがある。

 そうだ、周防大島での断水事故だ。2018年10月22日未明、ドイツの会社が保有する一隻のタンカーが大島大橋に衝突。それにより水道管が破裂。その後、約40日つづくことになる島の断水の光景と重なってならないのだ。
 事実、周防大島在住の中村明珍さんも、「同じに見えてしかたない」と言っていた。
 おそらく無念なのだろう。

 チンさんからすれば、自分たちの苦労はなんだったのか、と思わずにはいられないにちがいない。自分たちが体験したことが全然生かされていないではないか、と。
 ——周防大島の断水時にもっと向き合えていれば……。こうした災害が起きたときに、もっとスムーズに対処できただろうに。周防大島で起きたことが「経験値」になっていない。
 そんな叫び声が聞こえてくる。
 実際、あのとき、国は周防大島の断水を「ない」ことにした。すくなくとも僕にはそう感じられた。


 昨年の11月3日、年に一度の大きなマルシェ「島のむらマルシェ」が中止となった。水が出ないことをうけての判断だ。
 中止を決めて数日後、マルシェの運営メンバーである内田健太郎さん(養蜂家)から連絡がきた。
「こんなときだからご飯を一緒に食べよう会」の開催を検討している、とメールには記されていた。
 ぜひ、開催してください。微力ながらご協力できるかぎりしたいです。
 と返信をした。ほどなく、開催を決めたとの連絡をもらった。

 営業のタブチと僕は、3日の朝、広島駅前でレンタカーを借り、事前に注文しておいたペットボトル200本を乗せて、一路周防大島をめざした。
 行ってみて、百聞は一見にしかず、と実感した。人生で一、二番目に覚える、この月並みな格言が、深い真理となって迫ってきた。
 自衛隊は早々に撤退、給水所は限られていてそれを持ち帰るだけで重労働、すでに足腰を痛めた高齢者が日に日に増加、通院者があとを絶たない、育ち盛りの子供たちにはまったく不十分な給食……。

 タンカーの会社の補償もほとんどないらしい。少なくとも、橋と水道管の工事を船の会社が責任もっておこなうようなことはない。かといって、行政の発表では、復旧の見込みは遅れるばかり。東京五輪の工事で人と材料が奪われ、回ってこないという噂も……。
 ジャムズガーデンで働く知人は、「水がなく、新しいジャムを作れなくて。スタッフも休業せざるをえない状態です」と語った。
 島を一歩離れたとたん、まったく聞こえてこない話ばかりだった。

 どうして? なぜ政府もメディアも放置するのか?
「本気で」復旧をめざせば、すぐにできるはずだ。
「断水は人命にかかわる一大事」、「人命救助は国家の最優先事項」、これが当然であれば、人員とお金と技術を投入して数日で解決できるレベルの事故ではないのか。
 どうして、見捨てるのか?
 はげしい憤りをもって本州に戻ってきた。

 唯一救われたのは、島の少なくない人たちが、「なんだかほっとしてきました」「こうして外(の人)との接点がないことが不安だったんだ。ミシマさんと話していて、それが今わかりました」などと言ってくださったことだ。「この状態が異常なのかどうかもわからなくなっていた」とも。

 むろん、「救われた」と書いたのは僕自身に「うしろめたさ」があるからにほかならない。自分なりに手を差し伸べたところで、しょせん、当事者ではない。お風呂に入り、お茶を沸かし、用を足せば水を流す。そうした日常を、チンさんたちが困っているこの瞬間にも、僕自身は過ごしているのだ。えもいわれぬうしろめたい気持ちを引きずりながら送った40日となった。


 今年の7月、チンさん、内田健太郎さん、そして農家の三浦さんとじっくりと「断水」のことをふりかえってもらった(詳しくは雑誌『ちゃぶ台Vol.5』に収録)。その座談会のなかで、衝撃の事実を知ることになる。

 それは、真っ昼間に起きた怪奇事件さながらの事実だった。
 なんと、あの断水時の40日間は、「非常時」ではなかった……!
 行政的には平常時扱いだった。そのため、非常時のように物事を判断し、決定することができない。たとえば、給食は井戸水が出る家庭がつくって振る舞うという「例外」がNG、ボランティアは給水場所でだけの行動に制限される。そのため、ご老人が重たいものを腰を痛めて運ぶ姿を見ても、手を差し伸べることが許されない。そんなことをすれば「不審者」扱いされてしまう。
 なぜなら今は、非常時ではないから——。

 これほどバカなことがあるか。
 あのときの不自由な日常が非常時でなく「平常時」というなら、国や行政など要らない。
 心の底からそう思った。
 いや、なにも周防大島だけのことではない。

 昨年の夏は、西日本が集中豪雨に見舞われた。僕の住む京都の街並みも変わった。鴨川の大木が、下鴨神社、御所の木々がなぎ倒された。『ちゃぶ台』に毎年寄稿してくれている漫画家の榎本俊二さんからは、「ぼくの住む三次(広島)の橋は落ちたままですよ」と聞いている。

 建物にかぎらず橋や鉄道などまだまだ壊れたままのところがある。
 そうした復旧より、打ち上げ花火だ、お祭りだ、東京五輪だ。
 優先順位を完全に間違っている。
 こうした思いが『ちゃぶ台Vol.5』の巻頭文に結びつく。
「今、私たちをとりまく環境は、実態としてすでに「無政府状態」に近い」

 あのとき、周防大島にちゃんと向き合えていれば、今年の災害もすこしは軽減されていたかもしれない。災害が起こることが前提の社会設計になっていたかもしれない。
 チンさんや僕が感じた無念は、ここにある。


 無念の理由は、国や行政だけに向けられているわけではない。
 むしろ、足元に、問題は潜んでいた。
 断水から4〜5ヶ月経ったころ、周防大島を訪れ、皆さんと話すうちに見えてきたのは、島内の「見えない対立」だった。

 それは、「ありのままを受け入れる派」と「問題を変革したい派」の対立構造である。前近代派と近代派の対立と言えなくもない。あえて単純化すれば、前者は損害補償を求めず、後者は求める。今年の春の段階で、30億円の損害に対し、船を所有するドイツの海運会社の補償は僅か24億円と発表された。だが、この状況を前にしても、島が一丸になることはむずかしい。

 これもまた、周防大島にかぎった話ではない。日本中、いや、世界中で起こっている「分断」の縮図と言える。
 強い経済力、高い株価、すべてはその後、と主張する人々。そうした経済最優先が生きづらい社会をつくってきたのだと反論する人たち。

 この国の首相やアメリカのトランプ大統領に反論している人たちの声が、まるで暖簾に腕押しなのは、いま私たちが分断された社会にいることのなによりの証といえる。分断された溝を越えた瞬間、訴えや叫びはかき消されてしまう。
 問題は、分断された一方のほうにもさまざまな分断が生じていることだ。

 たとえば、会社の状況がよくない、という場合にも同じことが言える。
 進歩史観、進歩思想を前提に、イノベーションを起こして乗り越えよう、改善を図ろうとする近代派。昔がよかった、とすべてを諦めてしまう、あるいは波風たてず、行動を起こさず、ただ粛々と日々を生きる前近代派。
 どっちかの立場をとるかぎり、根っこの思いは同じであっても事態を動かすことはできない。
 周防大島の例はそうした見えない対立の縮図だと感じた。

 こうした思いを抱えながら『ちゃぶ台』を編集していた折、森田真生さんから一冊の本を紹介された。
『未来への大分岐』(斎藤幸平編・集英社新書)。このなかにそのヒントとなる事例があった。
 アメリカの先住民スー族の居住区に石油パイプラインを通す計画がもちあがる。その反対の仕方がおもしろい。土地の所有権を主張するのではなく、「地球との新たな関係」を求めて訴訟を起こしたという。もともとあったものを「地球に返す」、そうした判断と行動を促したわけだ。

 なるほど。
 これは、どっちかが勝ち、どっちが負けるという近代の訴訟のあり方と一線を画する。むろん、すべては無常のこととして、じっと黙って我慢しなかったことにする、そうした態度でもない。

 声はあげる。
 が、一方が他方をやりこめることを目的とはしない。
 ある意味、どちらも損をする。短期的な視点にたてば、そうなる。しかし、地球そのものが得をする。人間の視点から見た経済的利益、便利さ、自由や快適さといったものを双方手放す。そうすることで、地球の傷みが減少する。ひいては、人間も大きな恩恵を受ける。
 こうした流れだ。

 次元のちがう声の上げ方、解決の落とし所。こうしたものが、切実に求められる時代にいま私たちはいる。
 香港の混迷をみれば、明らかなことだ。
 前近代の象徴とも言える一党独裁の中国。それに対し、香港市民の一部は、強者に弱者が勝てるわけがない、と押し黙る。また一部は、香港自治の自由が、民主主義が、犯されるといって対立の声をあげる。今やまったく緒の見えない泥沼と化している。

 前近代の負の部分と近代の限界がぶつかり合っている。つまり、前近代的な強権主義に対し、自由、所有といった権利の侵害を主張したり、民主主義という価値の上に立って、対立をする構造だ。
 もちろん、前者より後者のほうがいいと私も思う。
 だが、後者では乗り越えることのできない局面、限界にさしかかっていることも確かだ。

「次元のちがう声のあげ方」が希求されていると思えてならない。
「乗り越える」、イノベーション、アウフヘーベン・・・こうした発想、思考では、なんら枠組み自体は変わらない。人間に軸足を置いた枠組のままだ。
 近年の災害のおおもとにあるのが、気候危機であるかぎり、それではなんの解決策にもならない。

 いやいや、周防大島は人災だし、香港の対立などはまったく気候危機と関係ないではないか、と批判があろうか。
 だが、そんなことはない。気候危機の原因が経済最優先である以上、無関係なわけがない。

 周防大島でいえば、断水中、国会では水道民営化の法案が通されようとしていたし、事故を起こしたタンカーがドイツの会社であることを考えれば、商社をはじめ日本企業との関係が優先された可能性は大である。香港と中国の対立が経済の覇権をめぐるものであることは言うまでもないだろう。

 人間視点から地球視点へ。
 そういう新たな次元にたつほかないのではないか。
 おいおい、個人の価値から離れることで全体主義は生まれるのですよ。
 たしかに、それはそうだ。けれど、地球視点は全体主義とはまったくちがう。個人か、全体か、といったとき、実は、全体といっても人間の集積としての全体であり、その点において「人間」という枠組み・次元に収まっている。

「人間」のほうに回収されない知恵からくる提案、声のあげ方をする。そうしないかぎり、世界中で頻出する対立が次の段階にいくことはない。そんな気がしてならない。


 人災として起こった周防大島の断水がきっかけで、新しい声のあげ方が生まれた。
 もし、そういうことになれば、それこそ、日本が世界に誇れる事例となるのではないか。五輪を開催するより、ずっとずっと、大きな人類史上に残る価値となる可能性がある。

 そのためには、内田樹先生が提唱される「習合」の視点が大きな参考になると思う。
「土着のものと外来のものが出会って、溶け合って、化学変化を起こしたあとに、はじめて『日本固有のもの』が立ちあがる」(「街場の宗教論(序)」『ちゃぶ台Vol.5』所収)

 地球にとって、という次元から声を発しつつ、それが真に大きな力になるために、土着の何かを融合させる。
 そのとき・・・。
 各地での災害に心を痛めつつ、せめて、という希望をここに見出している。

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